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小浜島<南国をゆく>  【戻る】


八重山の原点が残る麗しの島

島の周囲は16.6kmというから、ほぼ皇居一周の3倍ぐらいと思えばいい。その広さは7.84kuで東京ドーム600個分、 人口は668人だという。東京ドームに5万人の観戦客がいることを想像すれば、その600個分の広さの島に668人という 人口密度の希薄さが感じられはしまいか。この島の最大の建造物は学校で、小中学校を合わせて53名が在籍しているそうだ。 その児童学生に17名の教職員が教えているというのは教育環境としては恵まれているともいえそうだ。 また小浜小学校は1895年に創立で、すでに119年の歴史を有している。 これほどの歴史が日本の遥か南西の端にあたる小島にあるとはいささか驚く。

石垣島から「ちゅらさん島」へ

小浜島へ行くには海を渡るしか方法がない。飛行機などという近代的な代物が発着陸できる滑走路はないからだ。 太平洋戦争の時にも島に戦闘機が降り来てきた記録もない。そういう人を拒む自然があるから、 この島はいつまでも「ちゅらさん島」つまり“美しい島”でいられるのかもしれない。 石垣島からは高速船で行く。スピードは27ノットというから、船が波をまともに突破する時にはアトラクション並みの ジャンプをする。高速船を運行する会社は3社あり、朝7時頃から30分ほどの間隔で小浜島へ運んでくれる。 所要時間は約25〜30分。片道運賃は1220円。

交通信号機が一つもない楽園の生活

先ほどの1895年といえば明治28年に日清講和条約が調印された年で、明治新政府が海外において起こした戦争で初めて大勝利を獲得して、 台湾の割譲ほかの戦勝利益を享受し、国家としての実績と自信をつけはじめた頃の時代といえる。そんな大昔に東京から遥か3000Km 以上離れた小島に小学校を作った明治人の教育に対する情熱と気骨を感じぜざるを得ない。もう一つの教育に関する特徴は、 この島には交通信号機が一つも無いということだ。もちろん島中を自動車が走り回ってはいるが事故が起こることが少ないからだろうか 理由は見当がつかないにしろ、この島の子供たちは島を出て石垣島に行くまでは信号機を見ることはない。 これは現代日本においては奇跡に近い環境といえるかもしれない。

坂道を疾走する

この島は歩いて巡るのは無理ではないがちょっと辛い。港から島の中央にある集落までの高低差は40〜50mほどあろうか。 かつて八重山諸島が大津波に襲われたことがある。1771年に起きたマグニチュード7.4の大地震で、 石垣島の被害は甚大で人口の3分の1が失われたにもかかわらず、ここ小浜島の島民は全員無事で、 大津波は高台にある集落までは届かなったためといわれる。 港にはレンタカー・レンタバイク・レンタル自転車の店が軒を並べている。 レンタル自転車は1時間300円で、どの店でも同じ料金だった。 ギア付きか電動の自転車なら坂道を登れるし、逆の下り坂では風を切って爽快に疾走できる。 集落まではゆっくり自転車を走らせても15分あれば到着する。

小浜島の由来

小浜島の自然は八重山の他の島々と比べても劣ってはいない。美しい珊瑚礁の海に囲まれ、湧き水も少なくなく、 島の中央よりやや北側には山がある。島の人は別名としての「かふぬ島」と呼ぶことがある。 この“かふぬ”には果報という漢字が当てられる。果報と名付けるほどの豊かな自然がここにはある。 それが最も端的に顕れているのは水田とサトウキビ畑だろう。水があって米が採れれば自給自足ができる。 その米が年4回収穫できる。古い時代に小浜は小古見(ここみ)と呼ばれたとういう説がある。古見という地名は沖縄には多く、 民俗学者によると米(こめ)が訛って古見(こみ)になったともいう。

民俗資料館 (小浜島)

やはりオバァは不在だった。運のいい人は、この資料館を一人で作り上げた慶多盛(けたもり)オバァに会えるそうだが、 今回は運なくすれ違ってしまった。あとで聞いたところによるとオバァは石垣島へ行っていたらしいから、 もう少し遅く訪ねれば、石垣島から帰ってきたオバァに会えていたはずだった。 それはともかく、この資料館は私設であることが特徴といえる。本来なら島の民俗という類のものは役場など公的機関が やるべき仕事なのに、ここ小浜島では個人つまり一般の島民が開設運営している。 なんという大らかさ、大胆不敵な公共意識とでもいえるだろうか。
 
電話 :    0980-85-3465
住所 :    小浜港から自転車で20分、レンタカーで5分
営業 :    年中無休 9:00-17:00
料金 :    入館料 200円


嘉保根御嶽とカンドゥラ石

民俗資料館から嘉保根御嶽(かほねおん)まではほんの2〜3分で着いた。ややこんもりとした木立が視界に入るやそれが御嶽(うたき)だろうと見当を付けた通りだった。 本来の御嶽の様式である簡素さからすれば、この嘉保根御嶽は日本風神社的とはいえ十分に神聖な領域である雰囲気を持っていた。 祭神は竜宮神といわれるがそれ以上はよくわからない。
また島にとって最も重要な祭事の一つとして結願祭(けつがんさい)がここ嘉保根御嶽で旧暦8月の戊亥の日(毎年変わる)から4日間行われる。 祭は朝8時頃からミルク(弥勒)や獅子などの登場から始まる。その後ろに踊り手たちが続き御嶽の境内を一周、 そのあと棒術の演舞が披露され、10時半頃に最初の行事が終わる。続いて舞台芸能が始まる。 これは島を北組と南組に分けて、一方はミルクを代表に、もう一方は福禄寿を代表に登場し総見せ(座周り)を行う。 この時にその日の参加者全員が北組か南組に従って舞台を一周する。 続いて「舞踊小浜節」が行われる。小浜節は小浜島を代表する民謡で、黒く裾の長い独特の衣装で演じられる。 さらに「始番狂言」を皮切りに、南北両組により様々な芸能が続いていく。 「鍛冶工狂言」は琉球王朝時代の鍛冶の様子を描いた狂言で、この時代の沖縄には鉄が無く、 農具を制作するためには大和から鉄塊を輸入する必要があった。 竹富島種子取祭にも同様の演目があるが、牛の被りもんが舞台を歩き回るのは小浜島だけだという。 「鷲の鳥節」は代表的な八重山民謡で、正月の朝に太陽を目指し鷲が飛び立っていく様子を表している。 他の島では座開きに演じられることが多い演目で、ここではなぜか最後の締めに演じられる。 弥勒節同様、最初に行う島もあれば最後に行う島もあるようだ。 これらの舞台芸能が午後4時頃まで続く。(ミロク・福禄寿は午前中のみ会場内におり、午後は現れない。) そのあとに最後の行事として「ダートゥーダー」が行われる。
(以上「お祭り日本の旅」参照)
※当日は嘉保根御嶽のある集落内はこの行事のため昼食可能な食事処はほぼ休みとなるので、 リゾートホテル内のレストランか、または港前の食堂を利用するのが賢明と思われる。

御嶽の入口に立つ鳥居の左脇にあるのがカンドゥラ石だ。大小二つの石が地面にそのまま無造作に置かれている。 この石の別名は雷石で、かつては山の上からこの石を転がしたそうで、その転がる音がゴロゴロと雷のようだったといわれる。 また転がした理由は、日照りが続いた時に雷のような音を出して雨を降らそうとした雨乞い祈願の儀式とされている。
※写真下の右側の石柱の碑文:竹富町指定史跡 カンドゥラ石 指定年月日 昭和四七年八月三〇日
※写真下の左側の石柱の碑文:カンドウラ石(雷石 力石) 旱魃の際この大小二個のこの石を担いだり投げたりすると雨が降ると伝えられている。


大岳(うふだき)

この島のどこからでも見上げられるのが大岳(うふだけ)と呼ばれる標高99mの山だ。嘉保根御嶽からは自転車で5分もあれば辿り着く。 この山の上り口は想像以上に整備されており、右手にトイレがあり左手はステージと思しき屋根付き舞台が設えてあった。 いよいよ山頂を目指して登ろうと歩を進めると、眼前には急勾配の階段が人の気持ちを萎えさせるばかりに立ち塞がっている。 ここまで来て引き返すわけにもいかないと覚悟を決め第一歩目を踏み出した。たぶん若者からみれば大した高さの山でもないので 息など切らすこともなく一気に登りきってしまうだろうが、恥ずかしいことに途中で2度休憩を取った。ゆっくり10分ほどかけて 頂上に到着すると、その展望台から眺める景色はまさしく絶景で、石垣島の玉取崎展望台といい勝負をする。

島唯一の観光バス

石垣島へ戻る高速船の出港時間まで余裕があった。港の待合室に入ると昨日自転車を借りたドリーム観光のお姉さんの姿を見つけた。 近寄っていき島内観光が出来るバスのことを聞いてみた。小浜島では唯一の定期観光バスを運行しているコハマ交通があるという。 約1時間かけて島の名所や景勝地を巡る旅ができるそうだ。料金は1500円。昨日はレンタサイクルを借りてピンポイントの 島巡りをして地形の起伏が思うより平坦ではないのを知ったので、自転車よりバスでの移動の方が相当に楽であろうと思い、 待合室の建物を出てすぐ脇に待機するバスに向かった。定期観光は日に4便、午前は9時45分と11時05分、午後は2時35分と3時35分に 出発している。最新型とは言えないが一昔前の型というほど古くはないバスに乗り込むと、一人の乗客が佇んでいた。 出発時刻までしばらく乗客待ちをしたが、今日の島内観光バスはまさかその人と私の二人だけとなった。 オフシーズンといえバスのドライバーを入れても40数人乗りのバスに三人だけの旅は贅沢なものだ。
定刻になり発進したバスはまずサトウキビ畑が広がる地域に向かった。するとバスの運転手さんの語りがはじまった。 小浜島のサトウキビはなんと36種もあるという。(これは私の聞き違えで全国36種かもしれない)花なら見た目での違いで分かろうが、 サトウキビとなると素人が種を見分けることは不可能と思われた。バスは真っ直ぐに伸びた一本道を下ってゆく。 この道は通称「シュガーロード」と呼ばれる。砂糖の道という意味の名が付いた理由は、 NHK朝の連続ドラマが発端で、13年前の2001年に放映された『ちゅらさん』に何度も登場した道だという。 テレビの影響は物凄く、この小さな島に日本全国から一気に、しかも大量の観光客が押し寄せてきたという。 島の商売はあっという間に好景気になり経済的には大いに潤った。 が観光客のうちにはドラマに登場した赤瓦の沖縄風民家の風情を求めてズカズカと他人の庭先に侵入する者が増えたという。 ブームという社会現象の恐ろしさを島民はつくづく感じたのではあるまいか。立入り禁止の立札を門先に掲げる民家を途中で本当に見かけた。 ブームの恐ろしさはブーム最中だけでなく、むしろブームが去ったあとがなお恐ろしいものだ。 今はサトウキビ畑が徐々に減っていき牧草地に変わっているという。その牧草はブランド牛を育てるためのものだ。 サトウキビは300坪の畑から8tの収穫で28万円になり、仔牛は2ヶ月10日飼育して約50万になる、運転手さんは島の経済的変化をそう語った。 かつての砂糖の道は、やがて牛の糞がころがり、時にはブランド牛が横切る道になろうとしている。 この島はブームが来る前の静かな貧しい小島に戻ろうとしている。そういう栄枯盛衰を味わった。
バスは集落を巡り大岳に到着した。ここは昨日きた所だ。まだ山頂へ続く291段の疲れが微かに足裏に残っている。 同行の観光客は展望台を目指して階段を上がっていったが、私はもう一度登ることは断念して運転手さんと話し込んだ。 見かけ30代のメガネをかけた青年はこの島出身ではなく那覇生まれだという。 コハマ交通の現社長と縁あって小浜島に就職した。その社長は小学校を終えて島を出て那覇へ行き中学に入学した。 そこで同級生になったのがバスの運転手さんというわけなのだ。
このバス観光の唯一の同行者が山から下りてきた。次にバスが向かうのはこの島の西端に位置する細崎(くばざき)だ。 一旦バスは島の西海岸へ出て右手に東シナ海を眺めながら進んでゆく。隆起サンゴ礁で出来たこの島の周りを囲む海は絵に描いたような コバルトブルーに輝き、見る者を吸い込むようにして南国を主張しているかのようだ。 あの運転手さんが何か説明をはじめている。聞くと孔雀が見えると言っている。この島には野生化した孔雀が400羽生息しているという。 この孔雀はもともと島のリゾートホテルで観賞用に飼われていたものが台風等の自然災害で逃げ出して繁盛してしまったらしい。 この孔雀を捕獲して町役場へ持ち込むと謝礼金5千円がもらえると説明があった。孔雀の肉は食べるほど上手くはないとも言っていた。
島の西端、細崎に到着した。ここではバスから下車して砂浜へ出てみるよう誘導された。 ほぼ白い砂浜からは向かい側の西表島(いりおもてじま)が大きく迫るように近くに望める。西表島までの距離は500メートルほどだという。 泳いでも軽く渡れそうな距離だが、実は潮の満ち引きがあり見た目以上に流れは速いそうだ。地元では「ユナラドゥ(与那良渡)」と呼ばれ、 観光雑誌ではヨナラ水道と紹介されている海峡である。また別名「マンタウェイ」と呼ばれて、 オニイトマキエイ(マンタは愛称)が最もよく見れる場所として有名だ。 もうひとつの見所は、細崎が漁港だということで、古くから魚がよく採れたらしい。今回は見ることができなかったが「魚垣(ながき)」という 海中に石を積み上げ垣を作り、潮の干満を利用して魚を捕るための仕掛けがあるそうで、竹富町の有形文化財になっている。 さらに漁港の歴史としては、うみんちゅ(海人)で知られる沖縄本島南端の糸満の漁民が明治44年(1911年)にここ細崎に集団移住したという記録が残っている。
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